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Resistance in Life !

「生き方としてのレジスタンス!」と言ったら大袈裟だけど、そうありたいな〜って、ちょっぴりまじめに考えている、30代半ばの、とあるオッサンの日記です。
http://www.teruyuki-tanaka.net/
4月のテーマ「戦略は細部に宿る」
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「無知」への複雑な気持ち・よみがえる環境の記憶
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     最高裁判所、第2小法廷。生まれて初めて裁判を傍聴する。
     法と秩序、人間の尊厳の中、人が人を裁く。果たしてどのようなものなのか。以前から一度立ち会ってみたいと思っていた。遅ればせながらこの年でやっと、一社会人として、知っておかねばならないことの1つを僅かながら経験出来た。

     入口で傍聴のための整理券をもらい、中に案内される。法廷に入るまで、長い通路や階段を歩く。年配の案内係りが私1人に付きっ切りで誘導してくれる。「世間を騒がす事件だと傍聴人も多くて、案内も大変なんでしょうね?」と訊いてみる。「裁判は初めて?」こちらを見ずに返答が来る。「ええ」。「だったら地方裁判所の方がいいよ。今日は実況検分はないから」。
     傍聴人は私を含めて5人ほど。私以外は裁判関係を勉強している大学生か大学院生だろうか。新聞のスクラップブックや書き込みの凄いノートを広げて、隣同士雑談している。さながら裁判オタクといった印象。そっと隣のオタクに声をかけてみる。「よく裁判は来られるのですか?」今考えてみると、この場に自ら来ておきながらオカシな質問だ。「新聞でみたんで」。ぶっきら棒な返事。「次回どういう判決が出るのか、興味あるんで」。それ以上、話は続かなかった。
     私は裁判の現場を知りたいという理由で、特に今回の内容に惹かれて来た訳ではなかった。しかしいざ始まってみると、彼の興味はそのまま私の興味にもなった。

     刑事裁判。弁護団による最終的な弁論、そして検察による刑の執行要請が行われた。それぞれ5人の最高裁判官に向かって、判決への最後のプレゼンテーションをする場であった。5人の最高裁判官の入場のあと、弁護団の弁護人一人ひとりによる被告人への刑減の訴えが始まった。
     最初の弁護人が話し始めた時、思わずハッとした。使い込まれたナイロン製のリュクから資料を取り出し、被告人の計画性のなさを訴える弁護人。ヨレヨレのスーツに丸まった背中。私のすぐ前に立った弁護人の言葉は、なんと広島弁だったのだ。
     私の中で、瞬時にある風景が浮かんだ。中国地方のよくある田舎町だ。私は広島と山口の県境の小さな町で育った。そのせいか、この訛りを聞くといつも、パチンコ屋ばかりが煌びやかで、その他は活気をそう感じさせない街並み。そしてそこに暮らす人たちが持つ、保守的な内面、それが作り出していく地域性を連想してしまうのだ。
     事件は広島県福山市で起きた殺人事件だった。前科があり仮釈放中だった被告人が、仲間と2人、親切にしてもらったある老婆に金目的で近寄り、最終的に自宅で殺害。残虐性、仲間と結託した点で、その計画性が問われていた。
     弁護人は、しきりに犯行時、被告人の精神状態が正常でなかった点を強調。もし健全な精神であったとしても、計画性の詰めが甘く、再三良心の呵責に攻められた中で、不意にやってしまったと述べた。またそうなってしまった背景として、関係がうまくいっていなかった身元引き受け人が、嫌がらせのために、被告人の職場にわざわざ前科をばらしに出向き、そこに居られなくしてしまったこと。また被告人にはパチンコが元で多額の借金があった。その原因は人生のほとんどの時間を刑務所で過ごしたため、そうした社会の落とし穴を教えてくれる人がいなかった。そういう、言わば人生勉強を誰からも教えてもらえなかったことは、刑務所、ひいては社会システムの責任でもあると述べ、刑減を主張した。

     今回は被告人は直接この場にはいない。しかし私には、この人が陥ってしまった恐るべき地獄のスパイラルが想像ついた。一旦白い目で見られると払拭出来ない村意識、パチンコくらいしか何の娯楽もない生活環境。この事件時には彼は既に前科者だったので、もう悪人化していたかのかも知れない。しかし悪人だから、またやった。端にそう終わらせるのは、どうも解せない。
     殺伐とした人間関係を、有機的なものに転化していくのに最も重要なのは、良き人格だと思う。そして、その良き人格を育んでいくのに役立つものの1つが、文化的な刺激だと思う。それは何も東京のように、整った劇場や映画館行くことを指すのではない。本1冊だってそうだ。もっとこのことを正確に言うのなら、本でもない。ある情報が切っ掛けで持った、たった1つの興味ですら、肯定的に次のプロセスに引き上げていくこと。つまり学びだ。その素晴らしさに気が付かせてくれる人。そんな人との出会いが無さ過ぎたのではないだろうか。
     出会いは運も含めて、その人の力次第で変わってくる。だから当事者の責任でもあるが、私の勝手な偏見で言わせてもらうなら、この土地には、そういう真に見識のある人材が少な過ぎたのかも知れない。どうもそのことがこの事件の原因、そもそもの不幸の発端に思えて仕方がない。

     子供から大人になる過程で、そのことを自分なりに踏まえる。そしてその渇きを潤すために、人生という旅に出ていく。そういう自覚が持てるように導くことが教育の本質ではないだろうか。そんな視界の奥行きを持てなかった無知さ。これこそが今回の罪の根源原因だと叫びたい。

     ここに居合わせて、怒りを覚えるほど、強く感じたことだった。



     さて、私のこの想いとは別に、この裁判では社会的にまた別な重要な課題を抱えていた。それは、判決が死刑と確定した場合、執行後、被告人はドナーとして、自らの臓器を移植希望者に提供したいと願っていることだった。
     たとえ犯罪者とは言え、命を失った後の想いまで消し去ってしまっていいのか。一方で死刑囚なのに、その意志を尊重しドナーとして認めるのか。別次元では今後益々、臓器移植は必要となり、社会的には臓器のニーズが増えていくであろう。人権的側面と実際的側面。その中で、最高裁がどう答えを出すのか。この見解は、今後、類似事件を判断するための、21世紀の範とも成りかねない。その点で、注目を集めているのだ。

     ひとまず、この問題に関しては、また機会ある際に、大いに触れたいと考えている。




     

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